四、日本人美容師

森晃一のあれこれ

一、広州

ニ、美容室

三、二度目に挑戦した美容室

髪の毛とは、己の意思とは関係なく、間断なく伸び続けるもの。

故に、定期的に髪の毛にハサミを入れなくてはならない。

私のモミアゲも順調な伸びを見せていた。そしてモミアゲがくるくるとうねりだし(天然パーマなのだ)、またそろそろ髪を切らないと、と考えていた矢先に、私は運良く日本人美容師と知り合うことができたのである。

まだ日本にいたとき、同じ会社に勤める女性の先輩から、日本人の美容師を紹介されていたのだ。

「私の髪の毛を切ってくれている美容師さんなんだけど、森くんと同じ時期に北京に行くらしいわよ。よかったら紹介してあげるわ」

そう言って紹介してくれたのが、遠藤大輔という美容師だった。

結局、その遠藤とは日本で会う機会が作れなかったのだが、北京で仕事をしだしてから数カ月後に出会う機会に恵まれた。

二千十二年の冬で、その年の北京は恐ろしく寒かった。

日中でも平気でマイナス十五度前後まで気温が下がるという具合だ。

私たちが最初に顔を会わせた日も、同じように苦寒の季節だった。

空全体が暗く、灰色の雲がまるで巨大な蓋を下ろしたように街を覆っていた。

カフェに入り、コーヒーを飲みながら、私たちは実にいろんな話しをした。

北京に来たきっかけから、生まれ育った場所に、学生時代、アルバイト、音楽の趣味、それから女の趣味にいたるまで、実にさまざまだ。我々の会話は枝分かれするように広範囲にまで及んだ。

遠藤と私は共通点が多かった。むしろ多すぎると言ってもいい。

「大学は日大だった」と私がいうと、「俺の高校は日大付属だった」と遠藤が言う。

また私が「大学の頃は江戸川区の小岩に住んでた」というと、遠藤は「俺、実家小岩だよ」と言う。

また私が「学生の頃は新小岩のバーミヤンでバイトしていた」というと「俺は篠崎のバーミヤンだった」という具合である。

ちなみに日本での職場も同じ東京の月島だった。そんなわけで、我々はすぐ仲良くなった。

とりわけ、遠藤には妻子がいたが、私は依然として独身(これは今においても変わらない)だったのだが。

遠藤大輔という男は実に不思議な男だった。

美容師にしては珍しく、仕事においては、いつもぴしっとしたスーツを着ていた。

「美容師と言えども、自分が好きな服装をしていたんじゃだめなんだ。客に求められる服装をしなくちゃいけない。これも接客のひとつさ」

というのが彼の信念のようだった。

と思えば、休みの日には、フード部分にネズミの耳が付いた、可愛らしいミッキーマウスのパーカーを着ていたりするのだから、人間が面白い。

「美容師というのはね、カット技術ももちろん大切なんだけど、一番大切なことは、サービス業だってことを忘れちゃいけない」これもまたひとつ、遠藤の信念だったようだ。

「最新や流行のカットがどうのこうの言っている美容師は、二流三流なわけ。でも一流の美容師は、服装とか、言葉遣いとか、サービスで勝負するんだ。でもそれらってひっくるめると、ぜんぶ礼儀なんだよね。サービス業の基本中の基本さ」

私はそんな遠藤の考え方が好きだった。

ああ、こういうやつが将来、きっと成功するんだな、とよく思ったものだった。

そして、遠藤が変わらず私に言い続けてきた言葉がある。それは、日本の美容師の将来についてだ。

カットを一生懸命勉強して、客がたくさんついて、サロンの店長になって、やがて独立して自分のサロンを持って……、というふうに、美容師としてたどるであろう、そんな将来の行く末を、遠藤はいつも案じていたのだ。

「日本で働く美容師を、自分のようにもっと海外に眼を向けさせたい。将来に不安を抱える日本の美容師を応援したいんだ」

毎日夜中の三時四時まで眠い眼を擦りながら、仲間同士でそんなことを話しあっていた。

頭の中はいつもあれこれ考え事をしているような男で、そのせいでいつも不眠症に悩まされてもいた。

そんな遠藤の熱心さに心を打たれた私は、何か手伝えることがあれば何でも言ってくれと、折に触れて言っていた。

そしてある日、遠藤から、私のもとに一本の電話が入る。

「中国で働く美容師を紹介したい。それをぜひ森くんにやってほしい」

私に断る理由は何も見つからなかった。