お気軽にお問い合わせください

ここから

一、広州

森晃一のあれこれ

二千十五年十月二十八日。

飛行機のタラップを降りたとき、生暖かい南国の風が吹いていた。

大気中の水分をうんと吸い込んだ重く粘りけがある空気を肌で感じながら、私は新しい土地へと降り立った。

ちょうど三カ月前、私のメールボックスに、一通のメールが届いた。

「お元気ですか? 会社の仕事には随分慣れたことと思います。ところで、上海か広州に興味はありますか?」

社長からのメールだった。

示唆するところは、人事異動ということらしかった。

私はきっぱりと断った。今のところ、興味はございません、と。

私はそのとき北京で仕事をしていたのだが、生活はなかなか悪くなかった。

職場の環境にも満足していたし、周りにうるさく言う人間もいなかった。とりわけ、好きなだけ自分の時間を自在にコントロールできる環境が気に入っていたのだ。

もちろん、北京の歴史ある古い街並みも好きだったし、休みの日になれば、カフェでのんびりと好きなだけ本を読むことができた。

北京では人間臭いしがらみもなければ、束縛もなく、嫌々顔を出さなければならない飲み会もなかった。

外部からのさまざまな雑音に蓋をして、悠々自適に自分のペースを守って生きていける場所、それが私にとっての北京という街だった。
だから社長から人事異動の話しが来たとき、私は躊躇なく断った。上海などはもってのほかだった。

いくら外国といえども、あれだけ多くの日本人が住む場所も珍しい。上海には二、三度行ったことはあるのだが、街の中を歩くたびに、どこかしこから日本語が聞こえてくる。

私は上海に行くたびに、そんな現実に辟易したものだった。これじゃあ、日本で暮らすのと何も変わらないじゃないか、と。

上海の在留邦人は五万人といわれていて、北京の五倍だ。これはもう、考えただけでもうんざりする数字で、私にとって、上海への異動を断るに足る十分な理由だった。

もうひとつの広州はというと、中国の南方に位置していて、どうやら暖かい気候らしい、ということ。それから北京、上海に次ぐ第三の経済都市ということ以外に、私は知識らしい知識を何ら持ち合わせていなかった。

パソコンの前でネットを立ち上げ、調べるという行動すら取らなかった。端から興味がなかったのだ。

しかし七月の初旬、私は五日間の休暇を取り、一人で大連に行った。そこで気が変わった。

旅の目的はなかった。中国に来てからというもの、旅らしい旅をしたことがなかったので、何となく北京以外の場所を見てみるのも悪くないかなと、その程度の目的の旅だった。

海辺のホテルを取り、砂浜で一日中ぼおっと時間を潰した。目的のない旅に、目的を作る必要性も感じなかった。

訪れたい場所もなければ、食べたいものもなかった。近くで寄せては返す波と、時折吹く強い風、それだけで満足だった。

空は美しかった。突き抜けるような青い空と巨大な白い雲。そこを七月の太陽が強烈に射抜き、海面に真っすぐな道筋を立てて、きらきらと光を落としている。遠くの方で船が行き交う。そして太陽が少し西へと傾く。

私はそうやって長い時間をかけて、これからの将来について独りでじっくりと考えた。考える時間だけはたくさんあった。

私の休暇はそのようにして過ぎていった。しかし大連に来て、三日を過ぎるころには、早く北京に戻らなくてはならないと思うようになっていた。

そのとき私の頭の中を支配していたものは、「新しい土地に行ってみたい」という願望だけだった。

北京を離れ、もし別の土地で暮らすことになったとしても、それが何なのだ。私の自由が侵されるわけでもあるまいか、と。いったんそんな考えに支配されると、広州はむしろ南国の理想郷のように思えて仕方なかったのだ。

一刻でも早く旅を終えて、北京に戻る必要があった。社長から異動の話しが来てから既に二週間は経っている。もしかしたら、異動の話しは無くなっているのかも知れない。

とにもかくにも、私は広州への異動を選んだ。そして社内で幾つかの調整を終え、異動は十月末ということで決定した。

北京国際空港から飛び立った飛行機は、約四時間のフライトを終え、広州白雲空港に降り立った。時刻は既に夜の十時を回っていて、到着ロビーは国際空港とは思えないほど閑散としている。

私を空港で出迎えてくれる人間はいなかった。外に出て、ホテル行きのバスがやってくるの待った。外は蒸し暑く、すぐに汗が吹き出した。

三○分ほど待ったところで、バスがやってきた。バスの中は、カビ臭さを除けば快適そのものだった。エアコンが利いていて、ゆっくりと汗が引いていくのがわかる。

車窓から流れる外の景色を眺めると、夜の闇に紛れて青々と生い茂ったヤシの木やカジュマル、マンゴーといった樹々が眼に飛び込んでくる。

そこで初めて、ああ、ここは南国なんだなあと、感慨深くなった。私はそのようにして、これから始まる新生活に胸を弾ませた。

第二章へ続く