濱島が岡崎の店を辞めて、最初に名古屋のこの店に来たとき、経営状態はまるで最悪だった。
その状況に毎日のように愕然としていた。何としてでも店を軌道に乗せなくちゃならない。
そんな思いを抱き、何の打開策もないまま、無情にも時は過ぎ去っていく。
しかし突如ある日、セロフィンというカラー剤が、眼の前に降りてきた。
チャンスを掴む人間と、チャンスを逃す人間、またチャンスであることすら気が付かない三種類の人間がいるならば、濱島は「チャンスを掴む人間」になろうとした。
つまり、濱島にとって、このセロフィンというカラー剤は、天から落ちてきた千載一遇の又とないチャンスだった。
冬になると、メーカーのN会社が本格的にセロフィンの販売を開始した。同時に濱島の店にもセロフィンが導入された。
店で売り出す商品名は『キューティクル・カラー・トリートメント』ということで決まった。
ネーミーングが決定すると、さっそく店で売り出しにかかった。
しかし、濱島の期待とは裏腹に、セロフィンの売れ行きは決して順調と呼べるものではなかった。
《今では当たり前のことかもしれませんが、当時の日本では、わざわざ金を払ってまで、美容室でトリートメントをしようなんて考えるお客さんはいませんでした。理由は簡単ですよ。だって、ほら、家で自分でトリートメントできるじゃないですか》
画期的なアメリカ由来の商品が、日本の時代に追いついていなかった。濱島にとってみれば、これは正に不遇の時代と言えよう。しかし、濱島が諦めることはなかった。絶対売れるという自信があったからだ。
《客がいいというものが、なぜ売れないんだ》
そしてある日のこと。
店の営業が終わると、濱島はスタッフ全員を集めた。
この売れるはずの商品について、スタッフから助言を受けるためだった。
ああでもない、こうでもない、と侃々諤々とディスカッションを重ねるうち、スタッフのひとりが言った。
「もしかしたら、商品のネーミングが悪いのかもしれませんね」
確かにその通りだった。
『キューティクル・カラー・トリートメント』というネーミングは、いささか商品名としては長すぎた。思い切ってネーミングを変えてみようか。そう思うと、濱島は自然と言葉を口にしていた。
「髪にマニュキュアをするっていうのはどうかな?」
濱島が言うと、壇上一致で新しいネーミングが決まった。
これは、後に社会現象を引き起こす『ヘアマニュキュア』という言葉が誕生した瞬間でもあった。
それから数カ月後、濱島の店は朝から晩までヘアマニュキュアの問い合わせで、電話が鳴りっぱなしだったという。
テレビや週刊誌でも紹介され、瞬く間に日本全国にその名が知れ渡った。
沈みかけていた船が持ち直し、やっと航海という軌道に乗ったのだ。
そして店は、千客万来の繁盛店になった。
濱島が最初に店にやってきて、ちょうど一年の歳月が経っていた。二十九歳になっていた。