一九八四年。
チェッカーズの二枚めとなるシングル『涙のリクエスト』が大ヒットを飛ばすなか、日本で初めて衛生放送が始まった。
テレビでは連日のように『グリコ・森永事件』のニュースが報道されていた。
日経平均株価が初の一万円の大台を突破した。
遠い海の向こうでは、慌ただしくロサンゼルスオリンピックが開幕していた。
濱島一二が人生のターニングポイントを迎えたのは、正にそんな多事多端な時期だった。
濱島は、名古屋市内のある美容室で店長を任されていた。
岡崎から名古屋に出てきて、まだ一年と経っていなかった。
若干二十八歳である。
ある日、濱島の店に若い女性客がやってきた。アメリカから帰国したばかりのようで、どこか垢抜けした感じの女性だった。
その客を濱島が担当することになった。客は椅子に座るなり、濱島にこう言った。
「アメリカでやっていたカラーなんだけど、それ、すごくいいのよ。髪に透明感が出て、サラサラになるの。この店に同じやつはあるかしら?」
《はて、そんなカラーは聞いたことがない》
濱島は首を捻った。普段慣れ親しんでいる日本のカラー技術と、客の言う「アメリカのカラー技術」は明らかに一線を画していた。
濱島は何ら知識を持ち合わせておらず、それが何なのか、皆目検討もつかなかった。
なぜなら、八十年代における日本のカラーといえば、酸化染毛剤を用いて髪の毛を脱色し、その上に髪に色を付けていくという方法が主流だったからだ。
当時の濱島が知らないのは至極当然とも言えるだろう。
「そのカラー剤は、どういうメーカーで、どうな方法で髪にカラーをしていくんでしょう?」
濱島はそう訊いてみたが、客は要領を得なかった。
何を訊いても申し訳なさそうにただ首を横に振るだけで、的を射た答えは返ってこない。
それもそのはず、美容師や専門家でもない一般の客が事細かく詳細を覚えている方が珍しい。
しかし、同時に濱島は、
《アメリカには、日本にはない新しいカラー技術がある》
そう確信に近い直感を得ていたことも事実である。
客が帰った後、濱島は僅かな情報を頼りに、さっそく新カラー技術の情報収集に乗り出した。
薬剤メーカー、ディーラーと、思いつくままに、片っ端から電話で問い合わせた。
美容師仲間にも声を掛けて助力を受けた。
そして数日後、濱島のもとへ吉報が舞い込む。
「濱島くんが探している商品だけど、もしかしたらセロフィンってやつかもしれない」
お世話になっている先生からの電話だった。
「セロフィン? 聞いたことないですね」
「大阪に本社を持つNという会社があるのは知っているね。そのNがアメリカのセバスチャンと業務提携をすることになったんだ。濱島くんが探していた商品は、きっとそのセバスチャンのセロフィンってやつに違いない」
それを聞いた濱島は、早速N会社に問い合わせた。
電話を受けた担当者は言った。
「そのカラー剤は、確かに最近うちが売り出してた商品です」
「そのセロフィンってやつを詳しく教えてもらえないしょうか?」
「いや、実はそれがね、うちの会社もセロフィンっていう商品がよく分からないんです」
「よく分からない?」
「ええ、そうです。いいものなのか、悪いものなのか、という意味ですけどね。正直なところ、まったくの未知の商品なんです。果たして日本人の髪質に合うのかどうなのか……」
N会社の担当者は、困り果てたようにそう言った。
「濱島さん、とおっしゃいましたよね。せっかくの機会なんで、おたくのお店で使ってもらえませんでしょうか?」
濱島の店に大量のモニター用のサンプル商品が送られてきたのは、それから数日後のことである。
濱島は当時の様子をこう回想する。
《セロフィンっていうやつを最初に使ったときは、結構大変だったんですよ。
あのカラー剤は、今のようにクリーム状じゃなくてね、かと言ってまったくの液体というわけでもない。
カラー剤が地肌に付くと、シャンプーしても落ちませんから、って教えられていたもんだから、髪に塗布していくのにも神経を使って集中しなくちゃいけない。
これは本当に骨の折れる作業でしてね、でもまあ、そんなことも言ってられないんで、結局はやるんですけど、黒髪に肝心の色がぜんぜん入らない。
それで仲間同士で、このカラー剤、全然だめじゃないか、という話しになって、何でだろう、どうすればいいのかなあと、ああだこうだと言っていました。
最終的には、百人くらいのお客さんにモニターになってもらったと思います。それで、お客さんのほとんどが、こう言うんですよ。
「これすごくいいじゃないか」と。髪にボリュームが出たとか、癖毛が直ったとか、髪が良くなった、と。
そんなお客さんの声を聞いているうちに、セロフィンっていう得体の知れない正体に、やっと気が付いたんです》
これはカラーなんかじゃなくて、トリートメントだ。
目の前の霧が吹き払われたような思いだった。