岡崎に戻った濱島は、佐々木の両親が経営する美容室で働きはじめた。
田舎のなかの小さな美容室だった。
ベルトの上にでっぷりと腹が乗っかった父親と、五〇を過ぎた母親がやっているような店で、お世辞にもクリエイティブな世界とは言い難い、どこにでもありそうな地元の美容室のひとつに過ぎなかった。
その店で働きながら、秋から美容学校の通信過程に進むことになった。
通信過程では、濱島と同じように店で見習いのような仕事をしながら美容の勉強をしている生徒が多くいた。
翌年八月、その通信過程で学ぶ生徒が一同に会し、十六日間かけて一緒に勉強をする合同研修というものがあった。
これは濱島にとって、外の世界を知るまたとないチャンスであった。
他の生徒は、濱島より三つや六つも歳が離れた者ばかりで、二十一歳になる濱島は、そのなかでも最年長と言ってもいい。
濱島はひとり蚊帳の外といった具合で、そんな若者たちの美容談義に、まったくついていけなかった。
年齢差ということではなかった。
彼らが話しているカットやパーマなどの会話が、あまりにも濱島が持つ知識とかけ離れていたからだ。
そのとき初めて《こりゃウカウカしてはいられない》という気になった。
そのとき研修に参加していた濱島より三つ年下の女の子がいた。
その女の子が「もしよかったら、うちの店でやってるセミナーに来てみませんか」と濱島を誘ったのだ。
美容セミナーは、毎週木曜日に開かれていた。
濱島は自分の店を早退し、さっそく見学しに行くことになる。
その日はパーマの講習で、店には濱島と同じく、多くの若い美容師たちが参加していた。
そして、いよいよこれからセミナーが始まるという段になると、つい先ほどまで和気あいあいと談笑していた美容師たちの声はどこかへ消えていた。
一瞬にして場の空気が変わったようだった。ある種の静謐ささえ感じられる。
参加者たちは、一様に緊張した面持ちで、辺りの張りつめた緊張感が濱島にも伝染する。
《これからいったい、何が始まるんだろうか……》
濱島は、自分の心臓が早鐘のように鳴るのを感じ取っていた。
そして突如として店内に大声が響き渡る。
「よーい、ドン!」
ストップウォッチを持った若いアシスタントのかけ声だった。
その刹那、美容師たちが一斉に動き出す。美容師たちの手には、ロッド(髪にウェーブを作る際に用いる円柱型の棒)が握られていて、凄まじいスピードでモデルの頭にロッドを埋め込んでいく。
濱島は、一瞬たりとも眼をそらすことができなかった。
《これはいったい何なんだ……》
濱島は、まるで自分が別世界に紛れ込んだような感覚を覚えた。
これまで見たこともない、実に異様な光景だった。
それはあまりにもレベルかけ離れた違う世界だった。
濱島は言葉を失い、その場に呆然と立ち尽くすことしかできなかったのだ。
《本当にショックの一言でしたね。私も先生に教わりながらそれなりに経験を重ねてきたつもりでしたが、そんな光景は見たこともありませんでした。私なんて、それまでパーマなんか、ただ単にクリクリとかかってさえいればそれでいいと思っていましたからね。おいおい、ちょっとこれは違うぞ。こんなにも違うものなかって》
濱島にとっては、自分が働く小さな美容室がすべてだった。
それは、あまりにも狭い世界だった。
シャンプーからカット、パーマー、カラーにいたるまで、恩師と呼べる先生は、佐々木の母親のみだったのだ。
このままでは駄目だと、心の声が告げていた。
しかし、佐々木の母親には、痛いほど恩義を感じていたことも事実だった。
美容学校の学費を半分負担してくれたのも佐々木の母親だ。
それでも、結局、内なる求知心には抗えなかった。
「先生、すいません。違うサロンに行って、勉強してきたいです」
濱島がそう言うと、講師役を担っていた佐々木の母親は、意外にもあっさりと理解を示してくれた。
「わかりました。それじゃあ頑張って勉強してきなさい」
佐々木の母親も、いつかこのような日が訪れるだろうことを予想していたに違いない。
なぜなら、自分の技術以上のことを濱島から訊かれるたびに何も答えられなかったからだ。
負い目を感じていたのは、むしろ佐々木の母親の方だったのかも知れない。
毎週木曜日になると、濱島は他店のセミナーに出かけた。
それからほどなくすると、講師陣のひとりが一緒に練習しないか、と濱島を誘った。
それからというもの、本格的なレッスンが始まり、濱島は乾いたスポンジが一気に水を吸うかのように、瞬く間に知識と技術を吸収していった。
しかし最初の頃は、何もできない自分が悔しくて眼に涙を浮かべる日々が続いたという。
《最初はパーマが上手く巻けなかったんです。みんなが出来ることが私には出来ない。それが本当に悔しくて悔しくてね》
美容学校を卒業する頃には、濱島は店を出たいと考えるようになっていた。もしこのまま美容師を続けるのであれば、今の環境では限界があると感じていたのだ。佐々木の母親も、そんな濱島の所懐を汲み取っていたようだった。
店を辞めるとき、佐々木の母親は、頑張ってきなさい、と背中をぽんと押して、濱島を外の世界に送り出した。
「きちっとした立派な美容師になるために、修行してきます。そして必ずまた戻ってきます」